平成26年9月13日(土曜日)から、池波正太郎真田太平記館大坂の陣400年記念特別企画展「真田『幸村』誕生!」を開催いたします。
真田幸村人気は長く、このほど、2016年のNHK大河ドラマに「真田丸」が決定したことから、さらに真田氏への関心も高まり、上田市を訪れる人々も増えてきました。
「真田丸」は、徳川・豊臣最後の戦いの前半戦・大坂冬之陣で、真田信繁が大坂城の外郭に築き、大活躍をした出丸のことです。信繁はここで冬之陣を目覚ましい活躍で過ごし、その後夏之陣に突入するまでの約5ヶ月の間に、姉「むらまつ」とその夫「壱岐守」、甥の「主膳」に宛てて、「さへもん」「左衛門佐信繁」署名の2通の手紙を送っています。内容は、この微妙な時期の大坂城内での信繁の立場や心情、城内の近況を記した私信です。ここには信繁個人の肉親に向けた心情が吐露されており、当時の大坂城内の様子を示す資料として、また豊臣方が敗北に追い込まれていく重要な時期の書状として、研究家の注目を浴びています。しかし、近年、「真田左衛門佐信繁」は「真田左衛門佐幸村」として、多くの収集された資料集などにもひろく使われるようになりましたが、歴史上の「幸村」の存在は定かではなく、多くの資料集などが「信繁(幸村)」「幸村(信繁)」で標記されているわりには、「幸村」の来歴は不明です。
真田家の系図についても同様で、『滋野世記』には、「信繁 左衛門佐 従五位下 或幸村」とあり、他と同様に経過も、「或」の背景も記されていません。今展では、「幸村」の初出であろうとされる、大坂の陣終結後間もなく出されたという讀物『難波戦記』とその周辺を探ってみようと考えています。
今展で展示いたしました『真武内傳』(書写本・記載及び書写年代無・長野県立歴史館蔵)によれば、「慶長十八年丑九月上旬大坂秀頼公ヨリ御頼之御奉書苦戸山(九度山)真田左衛門信繁ヘ到来依之苦戸山名主長百姓共方エ左衛門佐信繁御物語被遊候ニ・・・・・・・御名乗ヲモ被遊真田左衛門佐幸村ト号シ」と、信繁はここで初めて御名乗も「真田左衛門佐幸村」と号し、九度山の住民達が月見と称し酒盛りをしてくれている間に九度山を「忍出」、信繁の許に馳せ参じた五十騎と落合、大坂城へ入城したとされています。しかし、この『真武内傳』では、この後に幸村が秀頼とともに鹿児島へ落ちのびたことも記されており、その真偽のほどは不明です。しかし、唯一、ここで「幸村」は初めて左衛門佐信繁=幸村となり、これまで大坂之陣後に出た『難波戦記』でその理由が語られなかった「幸村」が「名乗りを上げ」たという、一応の来歴が明かされた一つの文書ではあります。
慶長19年(1614)12月に東西和睦となり大坂冬之陣が終結し、間もなく関ヶ原合戦〜大坂冬之陣の様子を描いた一巻の軍記物語が出版されたといわれており、これが『大坂物語』(全)1冊(国立国会図書館蔵)であろうと考えます。ここには執筆者・出版年とも記載がなく、「真田左衛門」が登場します。その後に出版された上下2巻の絵入り仮名草子『大坂物語』も、同様に「左衛門佐」。次に出版されたのが万年頼方・二階堂行憲執筆の『難波戦記』、ここで「真田幸村」が登場。しかし相変わらず、自筆書状などには「真田左衛門」「左衛門佐」「信繁」などなどで、「幸村」は多くの歴史書にも使われて来ませんでした。
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